【鏡塚古墳】(かがみづかこふん)と 【心合寺山古墳】(しおんじやまこふん)大阪府八尾市
【鏡塚古墳】(かがみづかこふん)
標高一七メートル、俗に松山とか腹痛山という 墳丘の上部には粘土郭が残り、また火葬跡が二ヵ所発見され、石櫃の蓋の破片も出土している。 古噴時代の中期末の環濠式前方後円墳で、数年前に採土され、その跡に小神祠をまつる。入口のところに宝山神社の碑がある。 昭和三十四年四月大阪府から史跡として指定された。墳丘の上部には粘土槨が残り、また火葬跡が2カ所発見され、石櫃の蓋の破片が出土している。これもこの古墳の跡に、後にここで火葬が行われて、相ついで葬られたものである。周辺から出土した円筒埴輪や朝顔形埴輪、蓋埴輪から5世紀末頃の古墳と考えられる。
所在地:大阪府 八尾市大竹5丁目182
アクセス:近鉄「服部川」駅から徒歩約26分/近鉄バス「楽音寺」から徒歩約3分
【心合寺山古墳】(しおんじやまこふん)は、古墳時代中期につくられた前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。中河内では最大の全長160mの古墳で、当時この地域一体を治めていた王の墓と考えられます。 これまでの発掘調査によって、古墳は3段に土が盛られ、平らなところには円筒埴輪と呼ばれるつつ型の埴輪が立てられ、盛った土の斜めの所には、葺石(ふきいし)と呼ばれる石を置いていたことがわかりました。 また、後円部(こうえんぶ)と呼ばれる北側の丸い方の丘には、3つの埋葬施設(亡くなった人をいれる施設)があり、前方部(ぜんぽうぶ)と呼ばれる南側の四角い丘には、方形壇(ほうけいだん)と呼ばれる四角い台があり、後円部と前方部の間のくびれ部というところには、造り出し(つくりだし)と呼ばれる舞台のようなものもあります。
【熊野神社】(くまのじんじゃ)と【西ノ山古墳】(にしのやまこふん)大阪府八尾市
近鉄「服部川」駅から徒歩で【熊野神社】(くまのじんじゃ)へ向かいます。
【熊野神社】(くまのじんじゃ)八尾市
昔、楽音寺熊野神社は、西の山の東金比羅屋敷にありましたが、明治初期に
、貴島康彦先祖の土地である当地に移されたが、その後倒壊し、御身(神)体
は、神立にある郷社玉祖神社に預けられました。昭和三十一年七月十五日、
当神社再建にともない、預けた御身体を持ち帰ったが、御神体名については
宮司並びに村民に尋ねたが誰一人として知る人がおらず、故に村の三役によ
って熊野本宮大社へ参り、宮司様とお会いして由来を聞いた。それによると「
京都より摂津和泉を過ぎ当国に入り田辺より近露を経て当地に至る沿道に諸
王子社あり、古くは、衰微して僅かに地名のみ そのあとを止めている状況であ
ります。全国に分布する熊野神社の分社は5千社あって大阪府下には六十余
社が分神としてまつられている」とのことであり、当神社もその一つであることが
判明したので、昭和五十七年七月十五日、新たに分神として迎え、之を記念し
建立したものである。(熊野神社分神鎮座記念碑より)
所在地 :大阪府八尾市楽音寺7丁目 (大阪経済法科大学付近)
アクセス:近鉄「服部川」駅から徒歩約29分/近鉄バス「楽音寺」から徒歩約10分
【西ノ山古墳】(にしのやまこふん)
古墳時代前期の南面する前方後円墳である。もと楽音寺の村落がこの地の東の山麓にあった当時に古墳のある丘が「西ノ山」と呼ばれていたところから、そのまま古墳名として残っている。明治十四年(一八八一)開墾中に後円部から石棺が発見され、その中から人骨、勾玉、刀剣などが出土した。いま前方部は耕されて植木畑となっている。
大阪府八尾市楽音寺付近の景色 (2016年5月撮影)
【孝徳天皇陵】(こうとくてんのうりょう)
【孝徳天皇陵】(こうとくてんのうりょう)
大化改新後に即位した第36代天皇を埋葬した陵墓。 『日本書紀』は、白雉5年(654)10月10日、第36代・孝徳天皇(在位645 - 654)が難波宮の正殿で崩御され、12月8日大坂磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)に埋葬したと記す。近鉄南大阪線「上ノ太子」駅からアクセスする場合、国道166号線を春日方面へ進むと、途中の交差点に「竹内街道」の石柱が建っている。そこが河内飛鳥側の整備された歴史街道の起点となっている。孝徳天皇陵は「上ノ太子」駅から東南へ約2.7kmほど進んだ竹内街道の脇にある。街道沿いの民家の横に駐車場があり、その奥に陵の参道が続いている。
住所:大阪府南河内郡太子町。
アクセス:近鉄南大阪線「上ノ太子」駅から竹内街道を南東へ2.7km
【史跡 二本松古墳】(にほんまつこふん)東大阪市
【史跡 二本松古墳】(にほんまつこふん)
生駒山麓一帯には、今から約1400年前にあたる6世紀後半から7世紀の初めにかけた方墳時代の後期に、山麓で力を持っていた中小豪族達のお墓である「方墳」が群集して造られました。方墳は、南側に入り口を持つ横穴式石室を内部主体としており、巨大な自然石を積み上げて造られています。石室内は、通路としての「羨道」と、奥の墓室である「玄室」に分かれて、死者は木棺や石棺に納められて「玄室」に葬られますが、多くの古墳が通路までの空間に、家族の人たちの追葬を行っています。にほんまつこふんは、一辺約20m、高さ4.5mの方形墳で、内部の横穴式石室は、全長15.8m(玄室長4.5m、幅2.2m、高さ3.0m、羨道11.3m、幅1.9m)を誇り、山畑2号墳や愛宕塚古墳あたごづかこふん(八尾市)等に次ぐ巨石古墳です。昭和39年に旧枚岡市教育委員会が調査した結果、盗掘されており、凝灰岩製の石棺破片多数や、各種の須恵器すえきや土師器はじきなどの副葬品が出土したほか、中世の各種土器類・銭貨が出土しています。また、奥壁にそって出土した凝灰岩の石棺材は、格狭間形のくり込みが施され、仏教文化の影響を受けた珍しい遺物です。
#japan #travel #jaran #journal #spot #じゃらん #旅行 #旅行記 #スポット #古墳
【津堂八幡神社】(つどうはちまんじんじゃ)津堂城山古墳 / 藤井寺市津堂
【津堂八幡神社】(つどうはちまんじんじゃ)
大きな古墳の上にある八幡さんです。 神社のある津堂城山古墳 墳丘及び内濠は史跡指定。社殿背後の柵に囲まれた、鎮守の森のような後円部頂は、宮内庁治定の「藤井寺陵墓参考地」にあたります。新しい津堂八幡神社の社号標の裏には神社の略歴が刻まれています。 ・天正3年(1575年)織田信長の河内攻めの時、小山城(城山)落城の際、現藤井寺高校付近に所在していたと言われる神社も、同時に焼失したと思われる。 ・享保5年(1720年)津堂城山古墳後円部頂の西端に八幡社を設ける。
・明治42年(1909年)1月小山村産土神社に合祀。 ・明治45年城山古墳発掘時、竪穴式石室天井石の一枚で記念碑建立。 ・昭和23年津堂村氏神として復社。 ・平成23年8月、保存の為に 右天井石の記念碑を提供、新記念碑建立 津堂城山古墳について 形式 :前方後円墳 築造 :4世紀後半 サイズ:墳丘長208m 後円部径128m 被葬者:弁恭天皇、仲哀天皇、雄略天皇説あり 津堂城山古墳は古市古墳群の中でも初期の古墳で、誉田山古墳よりも古い古墳です。
【衣縫塚古墳】 (いぬいづかこふん)大阪府藤井寺市
【衣縫塚古墳】
古市古墳群に属する允恭陵陪塚、径約20メートルの円墳。
古市古墳群に属し、第十九代允恭天皇の陵とされる市ノ山古墳の前方部東側にあり、宮内庁によって「允恭天皇陵ろ号陪冢」に治定されている、径約20メートルの円墳。他に市ノ山古墳の陪塚としては、宮の南塚古墳がある。円筒埴輪や、形象埴輪(家、人物、太刀などが出土している。5世紀後半の築造とみられる。
平安時代の初めに衣縫塚古墳周辺にいた、衣縫造金繼(きぬぬいのみやつこかねつぐ)の娘はたいそう親孝行で、両親が亡くなった後も嫁がずに墓守をした。現在、潮音寺にある衣縫孝女碑は、もともとこの墳頂部にあったといわれており、そのため「衣縫塚」と呼ばれるようになった、という。
所在地:大阪府藤井寺市国府1丁目