【古室山古墳】(こむろやまこふん)藤井寺市

【古室山古墳】(こむろやまこふん)

 

前方後円墳。1956年(昭和31年)9月22日に単独の古墳として国の史跡に指定され、2001年1月29日には近隣の他の古墳とともに国の史跡「古市古墳群」として、あらためて指定された。

 

古市古墳群の北部、誉田御廟山古墳の北東に位置する。全長約150メートル、後円部径約96メートル、高さ約15.3メートル、前方部幅約100メートル、高さ約9.3メートル。墳丘は三段築成で、葺石が確認される。現在、くびれ部の東側のみに造り出しが残り、周囲に周濠と堤をめぐらしている。
内部構造や副葬品については不明であるが、後円部頂に板石が見られることから竪穴式石槨の存在が推測される。墳丘には円筒埴輪列があり、家・衣蓋・盾・靫・冑形などの形象埴輪も確認されている。出土した埴輪の特徴から、仲ツ山古墳とほぼ同時期、5世紀前半の築造と考えられる。
墳丘の一部には住宅が建っているが、藤井寺市による公有地化が進められている。なお、宮内庁の管理地でないため、墳丘内には自由に立ち入ることができる。

 

所在地 :大阪府藤井寺市古室2丁目

 

【道明寺盾塚古墳公園】大阪府藤井寺市

【道明寺盾塚古墳公園】藤井寺市

五世紀初頭の築造。帆立貝式前方後円墳
全長約110メートル、墳丘長さ約73メートル、後円部径約46メートル、高さ約7.5メートル。前方部幅約20センチ、高さ約1.8メートル。。
造り出しと周濠も確認されている。出土品は鉄製武器・武具・農道具・鏡・玉類など。
府営住宅建設の際に調査され消滅、現在は公園内に復元されている。

 

住所:大阪府藤井寺市道明寺6丁目

 

 

 

 

【藤ノ木古墳】(ふじのきこふん)奈良県生駒郡斑鳩町

藤ノ木古墳(ふじのきこふん)は奈良県生駒郡斑鳩町にある古墳(円墳)。「藤ノ木」の名称は所在地の字名に由来するが、法隆寺関係の古文書・古記録によれば、かつては「ミササキ」「陵山」(みささぎやま)などと呼ばれていた。 玄室内から大量に出土した土師器、須恵器の年代から古墳時代後期、6世紀第4四半期の円墳であると推定されている。この時期に畿内では前方後円墳の造営が終わりに近づいていた。古墳は法隆寺西院伽藍の西方約350メートルに位置する。現在は周辺が公園として整備され、説明板なども多数設置されており、法隆寺周辺の観光スポットとなっている。

 

 所在地:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西2丁目 
アクセス:法隆寺駅からバスで5分(法隆寺門前下車) 

 

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【松岳山古墳】(まつおかやまこふん)大阪府柏原市

【松岳山古墳】(まつおかやまこふん)大阪府柏原市 

 

国分神社の奥に広がる丘陵上にある全長約130mの前方後円墳です。この古墳には、円筒埴輪や巨大な鰭付楕円筒埴輪(ひ れつきだえんとうはにわ)が立てられていました。後円部墳頂には組合式石棺(6枚の石板を組み合せた棺)が露出しています。石棺を覆う竪穴式石室の原状は 不明ですが、周囲に板石が大量に散乱する現状から石室は墳丘上に積石塚のように築かれていたと推定されます。石棺の南北には大板石が立てられています。南 の立石は高さ2.3m、幅1.4m、北の立石は高さが1.8m、幅が1.4mで南立石には1箇所、北立石には2箇所の円孔があります。立石の用途や何のた めの孔なのかは不明(謎)です。古墳からは銅鏡、装飾品、武器、農工具、土器、埴輪など様々な遺物の出土が知られています。

 

所在地:柏原市国分市場1丁目(国分神社)

 

 *神社裏の小山を登る道は滑りやすい為、運動靴をお勧めします。また、夏場は虫が多いので虫よけ対策が必要です。 古墳の下部を見るのに懐中電灯(又は小型ライト)などがあれば便利だと思います。 また、松岳山古墳を見学の際には、隣接する国分神社社務所にお声をかけたほうがいいと思います。

 

 


松岳山古墳(まつおかやまこふん) 柏原市

松岳山古墳(まつおかやまこふん) 柏原市

 

 

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【愛宕塚古墳】(あたごつかこふん)大阪府八尾市

愛宕塚古墳】(あたごつかこふん)大阪府八尾市

 

古墳時代後期の横穴式石室墳。封土は墳頂部を除いてよく保たれており墳丘は径約二五メートル、高さ六、五メートルで、円墳の形状をよくとどめている。巨石を積み上げた横穴式石室は奥行一六、七六メートル、玄室の高さ四、一メートルを測り、高安古墳群中最大規模の後期古墳である。石室は古くから開口していたが、昭和四二年学術調査が行われた。遺物では凝灰岩製の家形石棺片、鉄製利器、金張鉄製品、土器のほか玉類、鉄地金銅張馬具など優れた副葬品が多量に残存していて被葬者の地位、性格を物語っている。

 

所在地 :大阪府八尾市神立4丁目
アクセス:近鉄服部川」駅から徒歩約23分/近鉄バス太田川」から徒歩約10分

 

愛宕塚古墳】(あたごつかこふん)は、神立墓地の西側にある直径約22.5mの円墳で、南向きの両袖式(りょうそでしき)の横穴式石室。石室の大きさは、全長15.7m、羨道部(せんどうぶ)8.7m、玄室部(げんしつぶ)7.0m、羨道幅2.1m、石室幅は奥壁で3.1m、高さは玄室で4.2mあり、大阪府下最大級です。盗掘を免れた多くの副葬品が多数検出されました。

 

副葬品;
「大刀について」
龍文銀象嵌鞘金具(りゅうもんぎんぞうがんさやかなぐ)付捩(ね)じり環頭大刀(かんとうたち)が見つかりました。龍文銀象嵌の鞘口(りゅうもんぎんぞうがんさやぐち・写真の金具)や鞘尻(さやじり)の出土例は極めて少なく、捩じり環頭大刀の分布の中心は大阪府奈良県を中心とする畿内とその周辺です。その他、武器としては、鉄鏃(てつぞく)、鉄鉾(てつほこ)、石突(いしつき)、玉類、被葬者の服に飾りつけたと考えられる金銅製の帽子形飾金具(ぼうしがたかざりかなぐ)、勾玉形(まがたまがた)飾金具類等が出土しています。

 

 

「馬具について」
鉄地金銅張の馬具には、腰佩(ようはい・人の腰に飾るもの)もしくは花弁形(かべんがた)の杏葉(ぎょうよう・馬の飾り)と推定される垂飾板(すいしょくばん)をはじめ、鞍(くら)の磯金具や鏡板(かがみいた)の破片、子持剣菱形(こもちけんびしがた)杏葉(写真の馬具)、辻金具(つじかなぐ)、雲珠(うず)、木芯鉄張壺鐙(もくしんてつばりつぼあぶみ)、革の飾金具、鉸具(かこ)等があります。垂飾板は、その縁取りの文様が波文帯(はもんたい・波状の文様)に点を配するもので、朝鮮半島出土の金銅冠(こんどうかんむり)製品にみられる文様と同じで注目される資料です。 

 

「土器について」
愛宕塚古墳で出土した多数の土器は、時期幅がありますが、主に6世紀代の須恵器(すえき)・土師器(はじき)が多数出土しています。須恵器には大型器台をはじめ、壺・はぞう・高杯(たかつき)・台付壺等合わせて百点あまりが検出されています。また、土師器には高杯や須恵器を模した壺等もあります。

 

 

【山畑古墳群】(やまはたこふんぐん)東大阪市

【山畑古墳群】(やまはたこふんぐん)東大阪市

 

大阪府東大阪市南東部(上四条町瓢箪山町あたり)に分布する群集墳。東大阪市内では最大規模の古墳群。
6世紀後半から7世紀はじめにかけて築造され、大半は直径10~15m程度の円墳であるが、双円墳や上円下方墳も含まれる。かつては100基以上あったとされるが、住宅開発などで破壊されたものも含めて70基ほどが確認されており、大半は東大阪市立郷土博物館の近辺周囲に密集している。基本的に横穴石室を持ち、副葬品として馬具類が多くの古墳から発見されている。この辺りは騎馬を飼育していた馬飼部を率いた渡来系氏族の勢力地(いわゆる「馬飼いの里」)とされ、これらの墳墓はその一族のものと推定される。

 

山畑22号墳
郷土博物館敷地内にある。東西に円丘をもつ双円墳だが現在は直径15m、墳丘高約4.5mの西丘と横穴石室が保存されている。発掘調査で石室から土器・装身具・馬具等が出土し、博物館にて保管・展示されている。
北緯34度39分38秒東経135度39分04秒
なお、郷土博物館敷地内には22号墳の他に38,39,40,41号墳があるが、すでに墳丘は無く、石室内部が露出(あるいは全損)している。

 

山畑51号墳
通称「成山古墳」。直径約15m、墳丘高約3mの円墳で、石室の開口はない。
北緯34度39分40秒東経135度38分38.5秒

 

山畑52号墳
山畑古墳群の中でいちばん標高の低い位置にある。6世紀後半頃の南北の墳丘長が約50mの双円墳で、その形状から通称「瓢箪山」と呼ばれる。北側は「大塚」、南側は「鬼塚」と呼ばれる。
西側に瓢箪山稲荷神社がある。かつて北丘(大塚)の石室内で狐が飼われていた。

 

 

 

幻の八尾ドルメン古墳 Mysterious Tumulus, "Yao Dolmen". 大阪府八尾市

幻の八尾ドルメン古墳 Mysterious Tumulus, "Yao Dolmen". 大阪府八尾市

 

全国的に有名な大阪府八尾市の高安古墳群の中で「八尾ドルメン」(又は「河内ドルメン」)とばれる古墳です。
高安古墳群とは6世紀代に、生駒西麓に造られた、300基以上の横穴式石室墳が集中する古墳群です。
服部川・山畑・大窪・郡川の地域に集中して造られており、この地域は「高安千塚」ともいわれています。6世紀は、聖徳太子蘇我馬子(そがのうまこ)・物部守屋(もののべのもりや)が歴史に登場する時代です。高安古墳群は全国的にも群を抜いて大きい横穴式石室を持つ古墳群です。「河内」という政治の中心近くにあって、大きな権力をもった豪族の墓域であったと考えられます。明治時代には多くの研究者(大森貝塚を発見した博物学エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse)や日本考古学の父といわれるウィリアム・ゴーランド(ガウランドとも、William Gowland)を初めとする著名な外国人研究者たちが訪れ、いち早く海外に紹介された古墳群です。

 

この「ドルメン」と言う言葉の意味ですが、これは支石墓(しせきぼ)のことで、新石器時代から初期金属器時代にかけて、世界各地で見られる巨石墓の一種のことです。基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石を載せる形態をとります。
世界各地にこの様式の墓を見ることができますが、わけても朝鮮半島において数多くのドルメンが残されており、世界中にあるドルメンのうち、約半分ほどが朝鮮半島で見ることが出来ると言われています。
日本では少ないですが九州地方でみることが出来るようです。しかしながら弥生時代前期が終わる頃には姿を消していった埋葬様式であると言われています。
現在ではこの八尾ドルメン古墳は、実は「ドルメン」ではなかったという事になっています。
明治時代初期に エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse)が古墳などを調査・スケッチをし、その成果を「日本におけるドルメン」として紹介しましたが、その中の一つがこの八尾ドルメンでした。
それ以降、「八尾ドルメン」又は「河内ドルメン」という呼び名が定着してしまいましたが、正式にはこの八尾ドルメンは
「大窪・山畑36号墳」と言います。
その後、この近辺の埋葬様式等も含めた調査の結果、様式は定かではいがこの八尾ドルメンは古墳の墳丘の盛土が失われ、石室が完全に露出した状態のものである事と言われています。
つまり石室の大半がなくなり入口の枠組みだけが残っているという状態の古墳なので実際には余り重要視されていない古墳です。従ってこの八尾ドルメンの案内等がないのでこの場所を見つけるのは困難です。この周辺の高安古墳群の中で重要視されている二室塚古墳などは、八尾市の正式な案内板がその古墳の前に立てられています。ちなみに、近鉄信貴山口駅の前の大きな周辺案内板の中には、「ドルメン」が書かれています。
以前、この八尾ドルメンを見学するのにこの古墳にたどり着くのは困難でした現在はこの八尾ドルメンの直ぐ近くを「農免道路」が通ってますので、近くまで行くことは容易になりました。しかしながら、寸前まで行っても周辺は年中草木が茂っていますので実際にどこにあるのかよく分からないのが現状です。「農免道路」を通って以降からの八尾ドルメンへ入り口からのアクセスを動画で紹介します。

 

 

 


幻の古墳、「八尾ドルメン古墳」 (正式名:大窪・山畑36号墳)/ Yao dolmen tumulus

 


幻の古墳、「八尾ドルメン古墳」 (正式名:大窪・山畑36号墳)/ Yao dolmen tumulus

幻の古墳、「八尾ドルメン古墳」 (正式名:大窪・山畑36号墳)/ Yao dolmen tumulus