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真田幸村出丸城跡 心眼寺(しんがんじ) 

 真田幸村とその子・大助の供養のために真田家の祖先である滋野氏が江戸時代に建てた寺です。心眼寺周辺は大坂冬の陣真田幸村が築いた大坂城の出丸・真田丸跡地といわれる。三光神社真田丸の東側に位置し、心眼寺は西側にあたります。「真田幸村出丸城跡」の碑が門の前にある。門の前は大阪明星学園です。

 

住所:〒543-0016 大阪府大阪市天王寺区餌差町2
アクセス:JR玉造駅から歩いて10分程度です。

 

三光神社(さんこうじんじゃ)の横に「真田山旧陸軍墓地」があります。この墓地を通って心眼寺(しんがんじ)に行くことができます。

 

 

 

民家とコンクリート壁の間を通ります。ここを抜けたらすぐ心願寺の裏になる近道です。
また、JR玉造駅ではなく、大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線「玉造駅」の場合は、2番出口を出て左へ進みふたつ目の角を右折します。しばらく歩くと前方に「善福寺(ぜんぷくじ)」というお寺が見えてくるので左折します。

 

 

道なりに歩くと「心眼寺坂」と呼ばれる緩やかにカーブした坂が見えてきます。大きな千手観音像が見えてきます。そのお寺の隣です。「心眼寺」は1622年(元和8年)に白牟(はくむ)和尚によって、「真田幸村」と「真田大助」父子の供養のため創建されました。そのため寺の定紋は「六文銭」、山号は「真田山」とされています。

 

山門前には仁王像が建立されており、その前に「真田幸村 出丸城跡」の石碑があります。「心眼寺」は「三光神社(さんこうじんじゃ)」と同様、「大坂冬の陣」にて真田勢が徳川の大軍を撃退した、三日月型の出城「真田丸」があった場所と推定されています。

「心眼寺」は1622年(元和8年)に白牟(はくむ)和尚によって、「真田幸村」と「真田大助」父子の供養のため創建されました。そのため寺の定紋は「六文銭」、山号は「真田山」とされています。

 

真田幸村 出丸城跡」の反対側には江戸時代末期、幕臣によって結成された「京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)」隊士の石碑もあります。

 

重厚感のある門扉には刻まれた「六文銭」。真田家の家紋が「六文銭」とされる一説として『三途の川の渡し賃が“六文銭”であることから、合戦で出陣した際には決死の覚悟で臨む』という意味が込められていたそうです。

 

「心眼寺」境内です。白い本堂の手前には庭園と幸村の墓碑があります。以前は幸村鎧掛けの松の木もあったそうですが、1945年(昭和20年)の大阪大空襲により建物焼失したと伝えられています。

 

山門のすぐ左にある小さなお堂には「まんなおし地蔵」が祀られています。
「まんなおし地蔵」の“まん”は“間”のことで、『間の悪さを直して不運を幸運に変えてくれる』といったご利益を授けてくれるそうです。

 

山門のすぐ左にある小さなお堂には「まんなおし地蔵」の左に小さな社と鳥居の稲荷社(いなりしゃ)があります。

 

 

従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓(じゅごいのげ さなださえもんのすけとよとみのぶしげのはか)」と記された幸村の墓碑です。
一般的には「真田幸村」と認知されていますが本名は「真田信繁」。実際は生涯一度も“幸村”と名乗ったことはないと言われていますが、「難波戦記」に記されていた名前が有名になり“幸村”が定着しています。
大坂冬の陣」で豊臣軍が勝利した後、「真田丸」は両軍和平講和の証として取り壊され、幸村もまた、翌年に再戦された「大坂夏の陣」で善戦するも「安居神社(やすいじんじゃ)」で戦死してしまいます。

 

 

 

白い本堂の手前の庭園と幸村の墓碑です。

 

白い本堂です。

 

 

本堂手前には「京都見廻組隊士の墓もあります。
江戸時代末期に幕臣によって結成された京都の治安維持組織「京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)」の隊士で、龍馬暗殺の実行犯とされる桂早之助(かつらはやのすけ)と渡邊吉太郎(わたなべきちたろう)の墓。「鳥羽伏見の戦い」で傷を負った両名は、大坂で命を落とし「心眼寺」に葬られました。この墓は、心眼寺の無縁仏の墓碑郡に埋もれていたところを歴史研究家・故 西尾秋風(にしおしゅうふう)氏により発見されました。

 

 

 

京都見廻組隊士の墓の横に、香月観世音菩薩があります。

 

 

真田丸顕彰碑(さなだまるけんしょうひ)
真田丸」は大阪明星学園の辺りにあったとされていることから、同学園テニスコート外側に、2016年2月に設置されています。