【高安古墳群】(たかやすこふんぐん) / 高安千塚古墳群

【高安古墳群】(たかやすこふんぐん) / 高安千塚古墳群

 

高安古墳群(たかやすこふんぐん)は、大阪府八尾市の東部、高安山の麓に分布する古墳群。「高安千塚古墳群」の名称で国の史跡に指定されています。八尾市の高安地区中部(千塚、山畑、大窪、服部川、郡川あたり)には約200基の古墳群が現存しており、その多さからこのあたりを「千塚」と呼ぶようになりました。 古墳時代後期の6世紀から7世紀にかけて造られ、大正時代の調査で、かつては600基ほどあったとみられています。 その多くが、横穴式石室を持った直径10~20メートルほどの小さな円墳で、高安山の中腹、標高50~300メートルあたりに多く分布しています。 大抵の場合、南側に開口しています。 このあたりでは4, 5世紀の古墳時代前・中期にかけては巨大な権力を持ったごく少数の人物が巨大な前方後円墳を造りました。しかし古墳時代後期には権力が分散し、財力のある小豪族がこのあたりに勢力を伸ばし、小規模な円墳を造るようになり、多くの墳墓が集中するようになったと考えられています。具体的な被葬者については詳細不明です。 
明治時代初期に モースが開山塚古墳などを調査、スケッチをして、その成果を「日本におけるドルメン」として紹介しています。 また、W・ゴーランドが二室塚古墳の写真撮影を試み、1897年(明治30年)に論文で「双室ドルメン」として発表していることが後の研究で判っています。 なお、坪井正五郎1888年明治21年)に「古墳・塚穴、ドルメン同源説」という論文を発表しています。

 

「高安千塚古墳群」の国史跡指定:平成27年3月10日付けで告示[文部科学省告示第38号]

 

 

「高安千塚古墳群」の重要性について

 

【歴史的重要性】

 

*200基以上の横穴式石室が良好に残る近畿地方最大級の古墳群。
   (224基。2016年11月。)
*日本の古代国家のなりたちを考える上で重要な古墳群。
   ・河内から大和への要所であったと考えられる。
   ・大型で精巧な造りの石室がありヤマト政権との強い繋がりが考えられる。

 

【歴史的景観の重要性】

 

高安山の豊かな自然の中で古墳が広がる歴史的な景観。

 

【考古学史上の重要性】

 

* 江戸時代から知られており、明治には海外へ紹介されている。

 

 

「高安千塚古墳群」の分布状況

 

1)服部川支群
2)郡川南支群
3)大窪・山畑支群
4)郡川北支群

 

 

 

「八尾ドルメン」 (正式名:大窪・山畑36号墳)/ Yao dolmen tumulus

 

全国的に有名な大阪府八尾市の高安古墳群の中で「八尾ドルメン」(又は「河内ドルメン」)と呼ばれる古墳です。墳丘の盛土が失われ、石室が完全に露出した状態になっています。この「ドルメン」と言う言葉の意味ですが、これは支石墓(しせきぼ)のことで、新石器時代から初期金属器時代にかけて、世界各地で見られる巨石墓の一種のことです。基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石を載せる形態をとります。

 

場所:八尾市農免道の神立2丁目付近
アクセス:近鉄服部川」駅から徒歩約30分

 

This ancient tomb is called "Yao Dolmen" (or "Kawachi dolmen") in nationally famous Takayasu tombs of Yao City in Osaka, Japan. This ancient's stone chamber has been completely exposed after embankment of the mound was lost.

 

Place : Near the road which is called Noumendou in Kodachi, Yao city, Osaka.
Access : 30-minute walk from Hattorigawa station of Kintetsu Line.

 

 

 

 

 

      

      

      

      

      

 

 

 

「二室塚古墳」(服部川25号墳 他7号墳)/ Double chamber ancient tomb

 

二室塚古墳(にしつづかこふん)は、300基近い古墳からなる高安古墳群の服部川に所在する、6世紀後半頃に造られた横穴式石室墳です。石室の構造は、右片袖式(みぎかたそでしき)の玄室を2つ連結したもので、全国的に類例のないものです。複数の石室を有する複室構造(ふくしきこうぞう)といわれる石室は、九州を中心に分布していますが、二室塚古墳の石室はこれと異なり、畿内で典型的にみられる片袖式石室を連結した構造で、このような石室は、同じ高安古墳群の郡川にある交互二室塚古墳(こうごにしつづかこふん)(右片袖式に左片袖式の石室を連結)にしかありません。二室塚古墳の石室は、当時の政権の中心であった畿内において、独自の複室構造として造られたものであり、畿内の横穴式石室を考える上で大変貴重なものです。また、二室塚古墳は、日本近代考古学の草創期である明治時代に、「日本考古学の父」といわれる英国人ウィリアム・ガウランドが、米国人ロマイン・ヒッチコックとともに、ガラス乾板による写真撮影を行い、「双室ドルメン」として、いち早く海外に紹介した古墳として貴重な学史を有する古墳です。ガウランドは、大阪造幣寮(おおさかぞうへいりょう)(現在の造幣局)の技術指導のため、わが国に招かれたお雇い外国人でした。彼は、日本各地の古墳の調査研究を行い、その業績は古墳の科学的研究の基礎を築いたものであり、「日本考古学の父」といわれています。ヒッチコックもまた、お雇い外国人であり、卓越した写真技術を持ち、日本の古代研究等にも大きな業績を残しています。彼らは、明治20~21年(1887~88年)に、高安古墳群を訪れたと考えられており、その写真には、当時の二室塚古墳石室の姿が明瞭に残されています。

 

住所:大阪府八尾市服部川1023(神光寺墓地)
アクセス:近鉄服部川」駅から徒歩約18分

 

 

Double chamber ancient tomb in Yao city, Osaka, Japan.
This ancient tomb ,“Nishitsuzuka-kofun” is located in Hattorigawa area of approximately 
300 tombs of Takayasu-kofun in Yao city, Osaka, Japan. It is horizontal stonechamber 
structural type, which was constructed in late 6th century.

 

In the latehalf of the fifth century, Kofun mounds in the northern part of Kyushu and the
Kinai region increasingly adopted the horizontal stone chamber structural style.
The construction of this horizontal stone chamber is Migikatasode-style (a stone chamber with passageconnected the right side in the wall of the burial chamber) and opened to the south. 
As two burial chambers are connected together inside ancient tomb, it is very rare nationally.

 

(Remark)
Ryosode-shiki & Katasode-shiki
When looking at the rock chamber from above, if the passage is located at the center of the burial chamber, it is called Ryosode-shiki and if the passage is located toward right side or left side, itis called Katasode-shiki.
For this ancienttomb, “Nishitsuzuka-kofun”, William Gowland who is called " the "Father of Japanese Archaeology", did photographing by way of photomask with Romyn Hitchcock (1851-1923cultural anthropologist) and introduced it promptly to foreign countries.

 

 

 

(Remark)
「日本考古学の父」といわれる英国人ウィリアム・ガウランド について。

 

William Gowland (16 December 1842 – 9 June 1922) was an Englishmining engineer most famous forhis archaeological work at Stonehenge and in Japan. He has been called the "Father of JapaneseArchaeology".

 

 

 

Address : 1023, Hattorigawa, Yao city, Osaka.(in the graveyard of Jinko-ji)
Access : 18-minute walk form the Hattorigawa station of Kintetsu Line.

 

 

 

 

      

      

      

      

      

      

      

      

      

 

 

「抜塚(ぬけづか)」(大窪・山畑7号墳)  / Nuke-zuka

 

浄土宗来迎寺の墓地内の南側、現在地から右手に見える横穴式石室墳(よこあなしきせきしつ)です。トンネルのように、通りぬけることができることから、抜塚(ぬけづか)ともよばれています。現在、残っている部分は、羨道(せんどう)といわれる石室の通路部分です。羨道の長さは8m、高さは2.2mあります。本来はこの部分の北側、本堂寄りに、玄室といわれる棺(ひつぎ)を納めた部屋がありました。玄室は、長さ5~6m、幅3m前後と推定され、石室の本来の長さは、13~14m前後になると想定でき、高安古墳群中で最大級の石室の1つであったと考えられます。現在、「抜塚」は国史跡になっています。

 

住所:大阪府八尾市大字大窪35
アクセス:近鉄服部川」駅から徒歩約20分

 

Ookubo/Yakatake No.7 ancient tomb : This ancient tomb is horizontal stone chamber 
style which is located at the south side of graveyard of Raiko-ji (temple). It is also 
called "Nukezuka" because its shape is like a tunnel that people can go through. 
The remaining part is a passage of stone chamber, which is called, "sendo".

 

Addess : 35, Oazaokubo, Yao city, Osaka
Access : 20-minute walk form Hattorigawa station of Kintetsu Line.

 

 

 

 

        

        

        

       

       

       

       

       

 

 

 

愛宕塚古墳」(あたごづかこふん) / Atagozuka-kofun

 

生駒山西麓部で、横穴式石室をもつ最大のホタテ貝式古墳とも言われている。標高70mの見晴らしのいい高台にある。開口部は南向き。円憤経は25m、墳高は60mで、古墳時代後期(6-7世紀)の築造と考えられている。横穴式石室(右片袖式 全長 16.8m、玄室高4.1m)は府下最大級の規模で、内部は両袖石室になっており、家型石棺片に、二上山の白色凝灰岩と、播磨系の石材の二種類が使われていたことが確認されている。家形石棺片、鉄製品、鉄地金銅張の馬具一式(鉄地金銅張子持剣菱形杏葉・鉄地金銅張垂飾板・銀象嵌龍文鞘金具 )金銅製装飾類、土器、玉類等が出土。捩(ね)じり環頭(かんとう)太刀の一部のほかに、多数の須恵器が出土した。古墳は府指定史跡で、出土品は府指定有形文化財になっている。

 

住所 : 八尾市神立4丁目42-89
アクセス: 近鉄信貴線 服部川駅下車 徒歩20分

 

 

Atagozuka ancient tomb is designated important cultural property by Osaka. 
It is a round burial mound and has dimensions of diameter, 25m and height, 6m. 
The constuction is in latter part of the sixth century. Atagozuka ancient tomb is said to 
be the largest scallop-shaped tomb at the western foot of Mt.Ikoma.

 

Address : 42-89, 4-chome, Kodachi, Yao city
Access : 20-minute walk from Hattorigawa station of Kintetsu Line.

 

 

 

 

 

 

      

      

      

      

      

      

      

 

 

 

「俊徳丸鏡塚古墳」(大窪・山畑27号墳)

 

古墳時代後期(6世紀)に造られた横穴式石室の古墳ですが、当地が謡曲弱法師(よろほうし)、浄瑠璃摂州合邦ヶ辻(がっぽうがつじ)で名高い俊徳丸の故地とされていることから、俊徳丸の墓とされてきたようです。 この古墳には、こういったいわれから、明治から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者が寄進したさまざまな石造物【実川延若(じつかわえんじゃく)寄進の焼香台・七代目松本幸四郎寄進の手水鉢・六代目尾上菊五郎寄進の灯籠の石】があります。 

 

場所:八尾市服部川8丁目
アクセス:「服部川」駅から徒歩約8分

 

Shuntokumarukagamizuka ancient tomb is horizontal stone chamber type whcih is constructed in sixth century. As it is said that Shuntokumaru who is famous for Joruri owned the ground, Shuntokumarukagamizuka has been regarded as his tomb. 
From this story, there are many stoneworks that kabuki actors, who succeeded between Meiji and Showa period,contoributed to this ancient tomb. The stonewaorks are a stand for burning incense, a waterbasin and a stone lantern.

 

Address : 8-chome, Hattorigawa, Yao city, Osaka
Access :  8-minute walk from Hattorigawa station of Kintetsu Line.

 

 

 

 

       

       

       

       

 

 

「開山塚古墳」(かいざんつかこふん)

 

 「開山塚古墳」という古墳の名称は、江戸時代に曹洞宗法蔵寺を開いた好山和尚の廟塔である清涼塔が、古墳の背後にあることから、名付けられたものです。石室の全長は、13mを測り、高安古墳群中、最大の両袖式の横穴式石室墳です。また、大森貝塚を発見した米国人の博物学者、エドワード・S・モースが、明治12年(1879年)に精密な図の作成を行うなどの調査を行い、欧米の学界にいち早く紹介した古墳でもあり、考古学の学史上も重要な役割を果たした古墳です。

 

エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse、1838年6月18日 - 1925年12月20日)は、アメリカの動物学者。標本採集に来日し、請われて東京大学のお雇い教授を2年務め、大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力しました。大森貝塚を発掘し、日本の人類学、考古学の基礎をつました。日本に初めて、ダーウィンの進化論を体系的に紹介しました。

 

場所:大阪府八尾市郡川6丁目3
アクセス:近鉄信貴山口」駅から徒歩約20分(近鉄信貴山口」駅(西の踏切)から、「法蔵寺」に向かって坂を上がります)。最寄駅:近鉄信貴山口」駅、又は近鉄服部川」駅。

 

This ancient tomb is called "Kaizanzuka-kofun". The total lenghth of this stone chamber is 13m. It is the largest  a horizontal stone chamber with ryosode-style (a horizontal stone chamber with the passage connected the center of the wall of burial chamber) in Takayasu ancient tomb groupe. Edward Sylvester Morse (natural historian) who found Omori-zuka did precise survey of this ancient tomb and Immediately introduced it to European and American academia. Kaizanzuka-kofun played the most important role in academic history of archeology.
A monument called "Seiryotou" stands back of Kaizanzuka-kofun.

 

 

アメリカの動物学者、エドワード・シルヴェスター・モース について

 

Edward Sylvester Morse was born in Portland, Maine as the son of a Congregationalist deacon who held strict Calvinist beliefs. His mother, who did not share her husband's religious beliefs, encouraged her son's interest in the sciences. An unruly student, Morse was expelled from every school he attended in his youth — the Portland village school, the academy at Conway, New Hampshire, in 1851, and Bridgton Academy in 1854 (for carving on desks). He also attended Gould Academy in Bethel, Maine. At Gould Academy, Morse came under the influence of Dr. Nathaniel True who encouraged Morse to pursue his interest in the study of nature.

 

 

 

Address : 3,6-chome, Kourikawa, Yao city.
Access : 20-minute walk form Shigisankuchi station.

 

 

 

 

 

 

       

       

       

       

       

       

 

 

 

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【高安古墳群・郡川支群】

 

 

 

 

【神光寺と付近一帯の横穴式石室の後期古墳の群集地】

 

神光寺と付近一帯の横穴式石室の後期古墳の群集地の散策をしました。 服部川の東方山腹にあり、谷一つ隔てて、郡川の法蔵寺に相対する。医王山薬師院神光寺と称し、曹洞宗蔭涼寺末である。享保年間(18世紀初め)に万徹和尚の開基で、薬師如来を本尊とし、本堂前に揚げてある“天玄堂”の扁額は、徳川光圀の帰依した東皇心越の書である。風景よく、参道には桜並木があり、桜の名所として知られ、春の花時には非常に賑わいを見せる。また付近一帯は、横穴式石室の後期古墳の群集地で、至る所に古墳がみられる。アクセス:神光寺までは、「服部川」駅から徒歩約18分(「服部川」駅より東方(高安山山頂)へ坂道を上がる。

 

 

 

 

 

 

 

服部川78号墳」国史

 

 

 

服部川7号墳」国史

 

 

 

服部川30号墳」

 

 

 

日蓮宗本照寺」の境内にある6世紀後半の古墳です。両袖式の石室で、玄室の平面形状が正方形に近い形をしていることが特徴的です。

 

所在地 :大阪府八尾市黒谷6丁目74
アクセス:近鉄信貴山口」駅から東南東へ徒歩約5分

 

 

 

 

 

 

 

【高安古墳群(たかやすこふんぐん)ウィキペディアWikipedia)】

 

 

👇(参考)大阪府八尾市の古墳関係の書籍。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【高安古墳群】(Takayasukofungun)ウィキペディア(Wikipedia)

【高安古墳群】(Takayasukofungun)ウィキペディアWikipedia

 

                  

     

 

 

 

coconala.com

 

【高安古墳群周辺の古墳】 大阪府八尾市

高安古墳群周辺の古墳に「愛宕塚古墳(あたごづかこふん)」があります。愛宕塚古墳は大阪府八尾市神立にあります。八尾市の東には高安山(488m)を含む生駒山地が南北に広がっています(金剛生駒国定公園)。高安山の向こうは奈良県になります。高安山一帯の山麓は旧高安郡に属し、愛宕塚古墳がある地は、扇状台地の高燥地です。愛宕塚古墳はこの扇状台地上の十三峠道の入口にあります。この台地上には前期、後期の単独の古墳が散在しています。北から前期の「西ノ山古墳」、「花岡山古墳」、「向山古墳」、後期の愛宕塚古墳が一列にならび、中期の「心合寺古墳」が向山古墳の西方にあります。さらにその西方、高野街道に「鏡塚古墳」があります。高野街道の郡川には中期~後期にかかる東塚と西塚があります。高野山の西斜面には、有名な高安古墳群が分布しています。

 

 

愛宕塚古墳(あたごづかこふん)」 神立地区23号墳

 

外形の直径は22.5m、高さ9mですが、羨道入口部の両側に4m、長さ3.6m、高さ2mの土手状の突部みられるので、単なる円墳というよりは、ホタテ貝形です。石室は西側壁で15.7m、玄室長7m、玄室幅、玄門基底3.1m、奥壁基底2.5m、玄室高3.9m~4.2m、玄門西袖幅は0.75m、東側0.4mです。羨道西側壁8.7m、幅は羨門付近で2.15m、高さは玄門付近で2.2mです。

 

 

愛宕塚古墳の再利用

 

この愛宕塚古墳は追葬を含めて6世紀末には墓としての機能が安定し、その後約200年程、安らかな霊地となっていました。ところが出土品のなかに平安時代初期の須恵器2点が認められる他、平安中・後期、鎌倉時代の黒色土器、瓦器、土師皿、羽釜などが検出されているので、平安時代になってから、愛宕塚古墳は再び利用されています。その理由は明らかにはなっていませんが、追善供養的なことが始められたのか、または、中世墓として利用されたのかもしれません。室町時代五輪塔や人骨が出土していますのでこの時期は墓所として利用されていたと考えられます。その後は、近世には古墳名となった愛宕信仰として利用されたと考えられます。

 

 

 

所在地:大阪府八尾市神立4丁目
アクセス:近鉄服部川」駅から徒歩約23分
周辺には住宅地もあり、古墳の中でも携帯は使えます。

↓ iPodtouch6で撮影してYouTubeへアップした動画です。
 

【愛宕塚古墳】 (Atagozuka-kofun) ① / 高安千塚古墳群

 


【愛宕塚古墳】 (Atagozuka-kofun) ② / 高安千塚古墳群

 


【愛宕塚古墳】 (Atagozuka-kofun) ③ / 高安千塚古墳群

 


【愛宕塚古墳】 (Atagozuka-kofun) ④ / 高安千塚古墳群 *古墳上部から八尾市方面の眺め。

 

 

 

 

 

「西ノ山古墳(にしのやまこふん)」

 

古墳時代前期の南面する前方後円墳です。もと楽音寺の村落がこの地の東の山麓にあった当時に古墳のある丘が「西ノ山」と呼ばれていたところから、そのまま古墳名として残っています。明治十四年(一八八一)開墾中に後円部から石棺が発見され、その中から人骨、勾玉、刀剣などが出土しました。現在、前方部は耕されて植木畑となっています。南の谷をへだてて、同じく前期の前方後円墳の「花岡山古墳」がありました。

 

花岡山古墳について:元和元年(1615)5月の大坂夏の陣には、徳川秀忠がここに陣をとって東軍を指揮しました。江戸時代には前方部の所に福生院という寺院がありました。現在は大阪経済法科大学となっています。現場の隣接する「熊野神社」境内からは、西方一面に大阪平野が望めます。

 

所在地:八尾市楽音寺7丁目(大阪経済法科大学付近)
アクセス:近鉄服部川駅から徒歩10分。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

熊野神社(くまのじんじゃ)」について

 

熊野神社分神鎮座記念碑があります。これによると、
「昔、楽音寺熊野神社は、西の山の東金比羅屋敷にありましたが、明治初期に、貴島康彦先祖の土地である当地に移されたが、その後倒壊し、御身(神)体は、神立にある郷社玉祖神社に預けられました。昭和三十一年七月十五日、当神社再建にともない、預けた御身体を持ち帰ったが、御神体名については宮司並びに村民に尋ねたが誰一人として知る人がおらず、故に村の三役によって熊野本宮大社へ参り、宮司様とお会いして由来を聞いた。それによると「京都より摂津和泉を過ぎ当国に入り田辺より近露を経て当地に至る沿道に諸王子社あり、古くは、衰微(すいび)して僅かに地名のみ そのあとを止めている状況であります。全国に分布する熊野神社の分社は5千社あって大阪府下には六十余社が分神としてまつられている」とのことであり、当神社もその一つであることが判明したので、昭和五十七年七月十五日、新たに分神として迎え、之を記念し建立したものである。」となっています。
衰微:物事の勢いが衰えて弱くなるさまを意味する語。

 

所在地:八尾市楽音寺7丁目(大阪経済法科大学付近)
アクセス:近鉄服部川駅から約徒歩30分。近鉄バス「楽音寺」から徒歩約10分

 

 

 

 

 

 

 

 

「花岡山古墳(はなおかやまこふん)」

 

西の山古墳から、南の谷をへだてて、古墳時代前期に造られた前方後円墳の「花岡山古墳」があります。大阪経済法科大学内にありますので許可なく入ることはできません。
元和元年(1615)5月の大坂夏の陣には、徳川秀忠がここに陣をとって東軍を指揮しました。
昭和30年代に消滅してしまい、現在は大阪経済法科大学正門傍に碑が立てられています。

 

 

 

 

「向山古墳(むかいやまこふん)」

 

古墳時代の前期に属し、独立丘陵を利用して設けられた西向きの前方後円墳です。墳丘は早くから開墾されて植木畑となり、後円部は一部が採土されています。後円部南側の池畔に平安時代末期の窯跡があり、いまも窯の一部が遺っています。ここで焼かれた瓦は宇治の平等院、京都の醍醐寺をはじめ近畿各地に運ばれています。

 

所在地:八尾市大竹8丁目
近鉄服部川」駅から徒歩25分。

 

 

 

 

「心合寺古墳(しおんじやまこふん)」

 

全長約160メートルの規模を有する。後円部の直径が約92メートル・高さ約13メートル、前方部の幅が約90メートル・高さ約12メートルの前方後円墳である。前方部が南方、後円部が北方にあり、墳丘は三段築成となっている。 また、生駒山地の麓に等高線に沿うように築かれて、周濠は南側と北側の2か所で堤を造って区切られているため、その東西で水位の異なる珍しいつくりとなっている。
近年、史跡公園として整備され、墳丘の平坦部には円筒埴輪(レプリカ)が並べて立てられている。復元整備にあたって、後円部中腹にある2本のキリの大木を保存する案と伐採する案があったが、結局残すことになった。 これまでの発掘調査で出土した副葬品等は、古墳の脇にある「八尾市立しおんじやま古墳学習館」で展示されている。
古墳時代の中期、5世紀初め頃に作られたといわれる。当時このあたりを支配していた豪族の墓と考えられている。

 

所在地:大阪府八尾市大竹5丁目
アクセス:近鉄大阪線河内山本駅から近鉄バス瓢箪山駅」行きで大竹停留所下車、
     徒歩約5分

 

 

 

 

↓ iPodtouch6で撮影してDailymotionへアップした動画です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「鏡塚古墳(かがみづかこふん)」

 

標高一七メートル、俗に松山とか腹痛山といわれています。墳丘の上部には粘土槨が残り、また火葬跡が2カ所発見され、石櫃の蓋の破片が出土しています。これもこの古墳の跡に、後にここで火葬が行われて、相ついで葬られたものです。周辺から出土した円筒埴輪や朝顔形埴輪、蓋埴輪から5世紀末頃の環濠式前方後円墳と考えられます。数年前に採土され、その跡に小神祠をまつります。入口のところに宝山神社の碑があります。昭和三十四年四月、大阪府から史跡として指定されました。

 

 

 

所在地 :大阪府八尾市大竹5丁目182
アクセス:近鉄服部川」駅から徒歩約26分/近鉄バス「楽音寺」から徒歩約3分

 

 

 

 

 

 

 

 

(備考)写真、動画はすべてiPodtouch6で撮っています。晴れた日はその性能をフルに
    発揮しますが、天気が悪い日はダメです。

 

 

【安福寺横穴群】大阪府柏原市

市立玉手山公園など玉手山の一帯は、大坂夏の陣(1615)の古戦場であるとともに古墳時代前期(4世紀)の古墳群でもあります。大和川と石川の合流点を望む玉手山丘陵上には、合計14基の前方後円墳と数基の円墳が、南北に連なって築造されています。また、公園に隣接する安福寺参道などには、6~7世紀の墓である横穴群も存在し、考古学上も大変貴重な地域です。門をくぐるとすぐに参道の両側に安福寺横穴群が広がっています。これら横穴群は、谷間の凝灰岩が露出しているところに掘られており、参道南側、北側に各16基、計32基確認されています。かつては古代人の住居であるといわれていた時期もありましたが、石棺や陶棺、陶器などが見つかっており、中には騎馬人物像などの壁画が描かれたものもあり、古墳時代後期の横穴墓であることがわかっています。大阪府の史跡に指定されています。

 

 

所在地: 大阪府柏原市玉手町7−21

 

 

 

 

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【史跡 高井田横穴公園内の古墳】 

高井田横穴墓群:大阪府柏原市所在の横穴墓群。高井田横穴群ともいう。 総数200基以上の横穴墓があり、その多くに、古墳時代の線刻画を伴うこと有名である。国指定の史跡である。史跡公園「史跡高井田横穴公園」として整備されている。 
横穴は岩盤に掘削された洞窟を墓として用いたもので、古墳時代に入って北部九州で発生し(5世紀頃)、中部九州から瀬戸内海を東進し近畿地方に至った(6世紀頃)ものと考えられている。高井田に横穴古墳が存在する事は古くから知られており、明治時代に近代考古学が息吹きを見せた頃には著名な学者も訪れたりしていたようである。また、この古墳を有名にしたのは1920年の線刻画発見である。

 

所在地:大阪府柏原市高井田809-1

 

 

この横穴群を一躍有名にした船・人物の線刻画。下はその実物。この線刻画は大正6年(1917)に発見され、「ゴンドラ形の船に乗る人物」とか「人物の窟」とか呼ばれている。船の中央の人物は堂々としたポーズを取っており、お付きと思われる二人の人物は小さく描かれている。描かれた服装は、当時の衣装を記録したものとして貴重な資料とされている。

 

 

「造り付け石棺」。高井田横穴群では19基確認されている。石棺は普通よそで作ったものを古墳に入れるが、ここでは床や壁と一体である。

 

資料館に行けば見れる古代のアイロン、火熨斗(ひのし)の出土は、国内では2例目であるが、中国・朝鮮では多く出土している。百済武寧王陵では、王妃(526年没)の副葬品として出土している。高井田山古墳でも、玄室には副葬品から見て二人埋葬されていた可能性が高く、火熨斗が出た方の棺からは中国産の鏡も見つかっている事から、こちらも女性の可能性が高い。